- 2016年5月23日
- テキサス追憶1
- 前院長 井田憲司
私は小中学校の三年間をテキサス州ヒューストンで過ごした。
太平洋を二週間かけて船で渡り、アリゾナの砂漠を二昼夜かけて列車で横断し、草原の中にそびえる摩天楼にたどり着いた。当時、飛行機がよく落ちたので、安全性と経済性を考えてのことであったのであろう。
父は小児科医だが、白血病の研究でテキサス大学M.D.アンダーソン病院に留学していた。レトロウイルスによる発癌実験をしていた。どう猛なC57blackや、おとなしいC3Hなどのマウスの腹腔内にウイルスを注入して実験していた。発癌しているかどうかを調べる為、大量のマウスを解剖して調べる際、私も夜中、よくかりだされ、手伝いをした。日本にレトロウイルスを最初に持ち帰ったのは父だとも聞く。
当時の日本では、テレビ放送が始まりかけていた頃で、未だ、電話、テレビ、冷蔵庫は一般の家庭にはない時代であったが、最早、アメリカでは各家庭にクーラー付きの車が1~2台、巨大な冷蔵庫、オーブン、クーラー、電話、テレビなど、当たり前の時代であったから、文明の違いに驚いた。
着いてすぐ、大統領選挙があり、近くのシャムロックヒルトンホテルにアイゼンハワー大統領が次期大統領候補のニクソン副大統領を伴い演説に来たのを、父に伴われ、見に行った。当時、日本では日米安保条約継続か否かで揺れていた時らしいが、子供である我々は学校で何かあったらすぐ帰ってきなさいと言われただけであって、事情を知る由もなかった。
J.F.ケネディーが期せずして当選。ニューフロンティア政策が始まった。ケネディーはソ連が宇宙開発競争で有人宇宙飛行をガガーリンに先を越された事、世界各地で共産革命が起こっている事を国民に訴え、国民一人一人が、応分の努力をしない限り、自由主義陣営は世界から消滅してしまうと国民に訴えた。でも元来アメリカでは学校は土・日が休みであったので、ケネディーが大統領になると、土曜日の休みは無くなるとのうわさで、子供たちはこぞってニクソン支持のステッカー張りを手伝った。それでもケネディーは当選、自由主義の為、立ち上がった。ヒューストンと目と鼻の先、キューバ危機が起こったのはすぐ後の事である。又、黒人の権利擁護の為、立ち上がった。
当時、ヒューストンはじめ、多くの都市では、白人、黒人の居住区は別れており、学校も白人学校、黒人学校は別であった。病院にいっても便所は“ホワイト“と“カラード“は別であり、バスも前部は白人、後部は黒人と分かれていた。黒人の警官は考えられない状況であった。学校の前を黒人のスクールバスが通ると、誰からともなく、黒人に向け投石が始まっており、黒人はバスの中からコーラーの瓶で応戦していた。 ケネディーは黒人と白人の同居を推進し、強制的にバスで黒人学校の一部を白人学校に、白人学校の一部を黒人学校に行かせる“バッスィング”(Bussing)を始めた。膨大な恨みを南部でかったケネディーは数年後、そのテキサスで暗殺された。それに公的権力が大きくかかわっていた疑惑は晴れぬまま、今日に至っていることは周知の事実である。
そんな中、私はどうかと言うと、問題もなく白人学校に通っており、日本人は勤勉であるがゆえに、又、一人クラスで英語で百点をとった事もあり、級長に選ばれたりしていた。他のクラスの生徒が日本を侮辱する言葉を吐くと、級友が押しかけて、翌日その生徒一人があやまりに来てくれたり、太平洋戦争で夫を失った教師が愚痴をこぼすと、後で皆が「気にするな」と声をかけてくれたり、私にとっては至極ありがたい環境であった。
つづく
- 前院長 井田憲司